毎年、大河ドラマなどで歴史上の物語を見るのは楽しいものです。私も歴史の話は好きなので時代物のテレビはよく見ます。そこでよく聞く「〇〇石の所領」という言葉。

 

国土を指しているのは分かるのですが、現代人にとって戦国時代の石高っていまいちピンとこないですよね。この記事ではそんな疑問を分かりやすくまとめてみました(^^)/

1万石の「石」とは、どれくらいの所領(広さ)を言うの?

 

先ずは、石高の「石」って、どんな広さを表すものなのかについて触れておきます。

戦国時代の日本では、成人の1食必要な米の量は1合でした。(お米1合=約150g=約180ml程です。)ですから、1日3合がおおむね成人一人の消費量とされていました。1石は成人1人が1年間に消費する米の量にほぼ等しいと見なされていました。

1日3合で333日分=1000合以上、約150g×1000合=約150㎏程

 

この計算から言うと、1石当たり米の収穫量約150㎏相当になります。因みに面積を表す日本の単位である反は、元は米1石の収穫が上げられる田の面積として定義されたものです。

1952年(昭和26年)の計量法により尺貫法の使用が禁止され、公式には使われなくなった。現在は、材木取引など一部の商慣行に残るのみです。

 

戦国の100万石は、現在の4つの県が合わさったくらいの領土!

「テレビで加賀百万石」という言葉を聞いた事があるという人も多いと思います。そもそも大名の中身入りするのは1万石以上からです。そうなると、その100倍ですから、明らかに桁が違う事が分かります。

現在、百万国に値する県はないですが、例えて言うなら4県を合わせたほどの大きさだという事です。当時の戦国大名の中でもダントツの規模だという事ですね!

 

日本全土のの所領を合わせると何万石になるの?

 

では、素朴な疑問ですが、日本全土でどれくらいの石高になるのかという事です。

 

(1) 1850万9043石7斗4升

太閤検地による慶長3年(1598年)の石高。
野中準編『大日本租税志 中巻』「慶長三年總高」による。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/800003/273

 

(2) 2217万1689石6斗7升4合

江戸時代初期の石高。
島原松平文庫『御当家雑記』「日本国知行高之覚」による。なおこの数字は、慶長8年(1603年)以降に提出を命じられた慶長郷帳または慶長国絵図の集計結果ではないかと言われているが、確証はない。慶長郷帳・慶長国絵図の原本の写本は断片的に残っている。

 

(3) 2242万6837石9斗

寛永10年(1633年)に提出が命じられた寛永十年巡見使国絵図の石高。
川村博忠『寛永十年巡見使国絵図日本六十余州図』による。寛永十年巡見使国絵図の写本が久保田藩などにまとまって伝えられており、その多くは上の江戸時代初期高(慶長郷帳による石高)をそのまま載せている。

なおこれとは別に寛永15年(1638年)頃にも「日本国中之惣絵図」という、より詳細な国絵図の作成が命じられており、一部の寛永国絵図では石高の数字が寛永十年巡見使国絵図から更新されているが、全国的な集計は不明。

 

(4) 2334万2672石

正保元年(1644年)に提出が命じられた正保郷帳・正保国絵図の石高
菊地利夫『新田開発』による。正保郷帳・正保国絵図は原本の写本が全て残っているわけではなく、正確な集計結果は不明である。正保郷帳には新田高も載っているものがあり、これを含めると2450万石を超える。

なお幕府に提出された正保郷帳・国絵図は江戸城の火事で一度焼失している。寛文4年(1664年)の寛文朱印状を発給する直前にも改めて各藩に高辻帳の提出が命じられているが、一部の石高が正保石高から更新されていたりするので、ますます正確な数字が不明である。

 

(5) 2591万0641石4斗1升8合0勺6才

元禄10年(1697年)に提出が命じられた元禄郷帳・元禄国絵図の石高。原本とその写本等が全て残っているわけではないが、集計結果は様々な書物に伝わっている。例えば『地方凡例録』「日本国総石高之事」(計算集計に誤りがあったりするが)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993722/64

(6) 3055万8917石8斗4升1合1勺3才9毛 天保2年(1831年)に提出が命じられた天保郷帳(天保国絵図は郷帳完成後の天保6年(1835年)以降の作成)の石高で、実高表記。天保郷帳・天保国絵図共に江戸幕府が所有していた原本が明治政府に引き継がれ、国立公文書館に完全に残っている。
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?KEYWORD=&LANG=default&BID=F1000000000000011172&ID=&TYPE=&NO=
https://www.digital.archives.go.jp/

なお以下の集計結果は勝海舟『吹塵録』の「天保十三年全国石高内訳」によるもので、天保郷帳の数字と一致する、19世紀前半のもの。
皇室御料 4万0247石余
幕府天領 419万1123石余
大名領 2249万9497石余
寺社領 29万4491石余
高家・交替寄合 17万9482石余
公家領・旗本領 335万4077石余
合計 3055万8917石余
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1177382/99

 

(7) 3237万3824石4斗5升6合7勺5才

地租改正直前の明治5年(1872年)末の石高で、実高表記。
東京大学史料編纂所所蔵『郡村石高帳』による。なお異なる集計結果もあり、『日本地誌提要』では3235万1879石6斗4升4合2勺2才、『共武政表』では3211万9461石0斗1升0合7勺5才8毛、地理局雑報では3229万6285石1斗5升7合3勺6才。

 

 

戦国時代の各大名の石高【まとめ】

上記の内容からも分かる様に、戦国時代の日本全体の石高は約1860石でした。

関ヶ原の戦いの際、約600万石が徳川家康によって所領没収となったという事です。つまり、関ヶ原の戦い後、日本の3分の1が空洞化したという事です。

この時点で、徳川家康が天下をほぼ手中にしたのが明らかという事が分かります。